氷の温度. 3



 鍋を片づけ、テーブルを部屋の端へよせると、二人掛けのソファ以外に邪魔なものはない、広い空間ができた。
「なにも、今やらなくてもいいだろう」
「腹ごなしに丁度いい。これが終わったら、うまい酒が飲める」
 速水が指差したテレビ台の中には、国産のウイスキーが無造作に転がっていた。安積が家で一人飲むウイスキーとメーカーは同じだが、こちらは五倍ほど値が張る高級品だ。
普段速水の家にある物も、もっと安物だったはずだ。これも歳暮に、誰かから贈られてきたものだろう。いや、貢物かもしれない。
 笑い含んだ声で、速水が講義を始めた。
「心肺蘇生法の講習を始める。まず、意識不明者を床に仰向けに寝かせて、衣服をゆるめる。このとき体を毛布などで巻いて、温めることも有効だ」
 さぁ、やってみろ。と促された安積は、しぶしぶ腰を上げた。
 横でどっかりとあぐらをかいている速水の肩をつかみ、後ろに押し倒す。速水は素直に仰向けになった。
 服は……。シャツの襟元は、もとからボタンが数個はずれている。大丈夫だろう。この次は、気道確保だったかな……。
「おい、安積。下もゆるめるんだ。女性の場合、ブラジャーやスカートのホックをはずすことも忘れずにな」
 下もだって? 安積は軽く頭を振って酔いを飛ばすと、速水のジーンズのベルトに手をかけた。少し躊躇したが、フロントボタンもはずし、軽く前をくつろがせる。
「次に、意識不明者の顔を横に向け、口を開いて、口の中の異物や人れ歯をとり出す。案外、みんなこれを忘れちまう。注意しろよ」
 安積は言われた通り、速水の頭を両手でがしっとつかみ、自分の側へ向けた。ずっと笑みをうかべている唇を、乱暴に指でこじ開ける。白い、頑丈そうな歯が見えた。
「異物なし。酒臭いだけだ」
「よし。そうやって声に出して、確認するのも大切だ。思いだしてきたか、ハンチョウ」
 口をこじ開けられているのに、速水は意外に明瞭な言葉を発した。安積はよく動く唇をひねり上げてやりたかったが、反撃され指をかまれる気がして、やめた。
「顔を仰向けに戻したら、肩の下に当て物をする。適当なものがなかったら、上着を丸めてつっこめ。──ああ、それでいい」
 安積は、ソファに無造作に置かれていた速水の革ジャンに丸め、速水の厚い肩の下へ押しこんだ。
「ここでようやく、気道確保だ。頭を後ろに曲げて、首を伸ばし気道の通過をよくする。……そうだ、額を押して、顎を持ち上げる。体位が悪くて喉がふさがっていたり、つまっているときは、いびきのような音がする。気道が舌でふさがっている場合は、舌を引き出してやるんだ」
 速水は続けて言った。
「片方の手で頭を押え、もう一方の手で首を持ち上げる」
 互いの呼吸が感じられるほど間近で、二人の目があった。速水のからかうような目線に、安積はなぜか恥ずかしさを感じた。こいつ、講習にかこつけて、俺のまごつく姿を笑いたいだけじゃないのか?
「おい。目をぎょろぎょろさせた意識不明者なんているか」
「偉そうな救助者だな。わかったよ」
 速水はおとなしく目を閉じた。とたんに野性的な印象がなりを潜め、冷静で、ひどく落ち着いた物腰の男に見える。こいつは、目の力が強いからな……。
「額を抑えていた手をずらし、指で意識不明者の鼻をつまむ」
 安積は形のいい鼻を、指先で軽くつつむように触れた。本気でつまんだら、しゃべれなくなってしまう。
「深く息を吸って、自分の口を大きく開ける」
 言われるがまま、安積は深呼吸した。
「もう一方の手で意識不明者の口をあけ、口全体をつつみこむようにして、自分の口をあてる。呼気を逃がさないよう、しっかりと送り込むんだ」
 安積は息をとめた。速水のやや厚めで、男らしくくっきりした輪郭の唇を見つめる。
 鼓動が速くなるのを感じながら、安積はゆっくりと自分の顔を寄せていった。
 かすかに、ビールの香りがする──
 唇が触れる寸前、安積はハッとして、頭をあげた。
「フェイスシートを忘れた!」
 その瞬間、速水は、大きな声をあげて笑った。


←Text top■  ←Back■  □Next→