氷の温度. 4



 テーブルを元の位置にもどすと、速水はほとんど手をつけていなかったビールをぐびりと飲んだ。すっかりぬるくなっているだろうに、ずいぶんとうまそうに飲むもんだ……。
 速水は視線を感じたのか、安積に飲みかけのビールを差し出した。物欲しそうな顔をしていたのか? 安積は受け取ると、赤くなる頬を隠すように目を伏せて、一口飲んだ。
 うまい。苦みとともに、あまりきつくない炭酸が、さわやかに喉を下る。
 缶を返すと、速水は太い首をのけぞらせ、残りを一気に開けた。
 喉仏がごくり、ごくり、とビールを飲み込むたび、上下するのがよくわかる。
「おい、その恰好。すこしは直したらどうだ」
 速水はゆるめた衣服のままだった。ファスナーすら上げてない。
「おまえさんが脱がせたんだ。俺の落ち度じゃない」
 俳優か何かのように、速水はひょいと肩をすくめて見せた。そのまま 「着替えてくる」 といって、寝室に向かう。
「人聞きの悪いことを言うな! だから俺はおまえが嫌いなんだ」
 後ろ姿に悪態をつきながら、安積は速水がいつものスウェットに着替えていないことに、いまさら気がついた。
 速水も今日は出勤だったはずだ。帰ってくるなり、着替える間もなく鍋の用意をして、俺を待っていたのか。安積は投げつけた 「大嫌い」 という言葉を、少しだけ後悔した。
 ……たまになら、待たれるのも悪くないな。安積はぼんやりと思った。そして半ば習慣的に、別れた妻のことを考える。
 そう、毎日なら、お互いに気が狂ってしまうだろう。──あの頃の、俺たちのように。
 あいつは待ちすぎた。待ちすぎて、最後には悲しみとか怒りとかを通り越した、白く、能面のような顔をしていた。
 安積は、元妻の、感情の一切が抜け落ちた瞳を思い出した。
 胸の奥が、ずしり、と重くなった。

                       * * *

「ほら。ご褒美だ」
 氷を入れたグラスを目の前に差し出され、安積は物思いから目覚めた。思いのほか、深く考え込んでいたらしい。
「俺はペットか、なにかか」
 唸るように呟いて、安積はグラスを受け取った。畜生、後悔なんか、しなければよかった。
「ひとつ芸でもして見せたらどうだ。なでてやるぞ」
「おまえの軽口は聞きあきたよ」
「自分で言ったんだろうが」
 速水はテレビ台からウイスキーを取り出すと、封を切った。安積のグラスに半量ほど注ぎ、自分のグラスも満たす。辺りに鼻の奥をくすぐるような、華やかなモルトの香りがたちこめた。
 速水はソファへ腰をおろすと、先ほどとは打って変わった、静かな声で言った。
「なぁ。いい加減、奥さんと寄りを戻したらどうだ」
 安積の物思いを察したかのような、タイミングだった。
「またその話か」
 だから、おまえと二人で飲むのはいやなんだ。安積はグラスの氷がすこしずつ溶ける様子を見ながら、低く言った。
「そういうおまえはどうなんだ。友達の心遣いを無駄にして、中年親父なんかと酒を飲んでどうする」
「そうだな……。安積。おまえが復縁したら、俺も自分の身の振り方を考えるさ」
「だから、どうして俺が、おまえの人生を押し付けられなきゃいけないんだ」
「わからないか?」
「ああ。さっぱりだ」
「そうだろうな。おまえは、そういう奴だ」
 いつもの憎まれ口とは違った、速水のひどく疲れたような声に、安積は顔をあげた。
 数秒間、二人は視線をあわせた。速水の感情を読み取る前に、安積はなぜか恐怖を感じて、再びグラスに視線を落とした。
 速水は、かすかに痛みを感じているような苦い笑みを、片頬に浮かべていた。
 わかるわけがないじゃないか。安積は自嘲気味に思った。俺は、好きで一緒になった妻でさえ、理解できなかった男だぞ。鈍感な、ただの中年男だ。
「いつか……」
「なんだ」
「いや……。なんでもない」
 いつか、俺とは違って、おまえを理解できる女性が現れるさ。安積はそう続けようとしたが、速水を傷つけるような気がして、口を濁した。
 速水が傷つく、だと? なぜ、こんなにも、俺はひどいことをしている気になるんだ?
 安積は苛立ちを隠すように、グラスをあおった。
 氷の冷たさが、一瞬、舌を焼くほど熱いような錯覚を覚えた。
 その熱は、触れなくても感じた、速水の唇の熱さと重なった。
「──もう一杯、もらうぞ」
 安積はテーブルの上からボトルを取り上げた。そして 「この話はおわりだ」 と、すこし大きな声で言った。
 速水はまだ、微苦笑を浮かべている。
 今、話をやめても、きっとこいつは、何度でも蒸し返すだろう。安積は確信していた。そして、俺が理解しない限り、何度でも傷ついた笑いを浮かべるんだ。
 安積には、どうすることもできなかった。いや、本当は、どうにかできるかもしれなかった。だが、それに気づくのが怖かった。恐ろしかった。もし、わかってしまったら……。
 安積は目を伏せ、琥珀色の液体を、ただひたすら喉の奥に流し込んだ。
                                                END


←Text top■  ←Back■