氷の温度. 2



「今、そっちへ向ってる。なにか、つまみいるか? ……そうか。4人前なら、必要ないな」
 安積は速水へ連絡を入れると、途中のコンビニへ入った。手土産というほどのものではないが、せっかくなら鍋にあう飲みものが欲しいと思ったのだ。
 ビールか日本酒にするか迷った末、安積は両方とも購入した。手酌でいけるように小瓶の清酒2本と、500ミリリットルのビール3缶。足りなかったら速水のウイスキーがある。
 棚から酒を取り出す時、同列に並んだ発泡酒の値段に一瞬手を止めたが、安積は昔から飲んできた国産ビールをかごに入れた。
 せっかくの鍋が、数百円けちって台無しになったら散々だ。
 あいつも確か、このメーカーを贔屓にしていたはずだしな……。
 ふとそんなことを考えている自分に気づき、安積は口元をゆるめた。
 私も結構、浮かれているな。

                       * * *

「あー、食った、食った。しめの雑炊は、腹にたまる」
「おまえ一人で、三人前は食べたしな」
 速水はごろりと床に寝そべった。不思議とだらしなさは無い。満ち足りて舌なめずりしながらまどろむ、巨大なネコ科の動物のようだと安積は思った。安積も心地よく腹が重かった。こんなに物を食べたのはいつ以来だろう。
 速水同様、横になりたかったが、あぐらの足を組みかえるだけにとどめた。上着はとうに脱いでいるが、下はスラックスのままだ。今でさえプレスラインがうすれ、くたびれた感がでているというのに、寝そべってさらに皺をつけるのは気が引けた。
 速水は横ばいになって片手で頭を支える楽な体勢をとり、にやにやと笑みをうかべて安積に言った。
「なあ。食ってる最中は、水を差すのも悪いと思って言わなかったが、河豚の毒性ってどれほどのものか知ってるか」
「食べた後にも聞きたくない話だな」
「その昔、毒殺事件の手口にも使われたんだと。刑事さん、後学に聞いておいて損はないぜ」
 満腹だ、と呻いているくせに、速水は新たなビールをコンビニ袋から取り出し、片手でプルタブを器用に引いた。外気との差で缶は薄く汗をかいている。速水はうまそうに一口すすった。
 安積もグラスに残ったひれ酒を含んだ。香ばしさと日本酒の甘みが口中にひろがり、かすかに魚の生臭さが舌に残る。ヒレからのだしのせいか、ただの熱燗とは違った、とろりとした喉ごしが心地よかった。
「河豚毒の毒性は、青酸カリのなんと千倍だとさ。僅か2ミリグラム程度であの世行き。
たとえばキモや卵巣あたりは、二、三切れほどで致死量に達するらしい」
 口端からこぼれたビールを太い親指でぬぐいながら、速水はつづけた。
「口中のしびれから始まって、嘔吐、頭痛、めまいなんか一般的な中毒症状が数十分つづく。そのうち体全体にしびれが回って、最後は呼吸困難であの世行き、だと」
「血清や薬は?」
「それがあったら、河豚ももっと世の中に出回って、安く食えるようになるだろうな。研究も進んでいるようだが、今のところ対処療法しかない。ところが逆にいえば、呼吸を確保して心肺停止状態にならなきゃ、ある程度蘇生する確率は高いそうだ」
 だから、安心しろ。速水はにやりと笑って言った。
「なにがだ」
「おまえが呼吸困難になったら、一晩中でも人工呼吸してやる」
「まず、救急車を呼べ」
 こいつなら、やれるだけの肺活量をもってるだろうな。うんざりしつつ、安積はつづけて言った。
「俺には無理だな。やり方をすっかり忘れている」
 本当はうろおぼえ程度にはやれそうだった。だが、実際にためしてみろ、といわれてはたまったものではない。しかし、これは逆効果だったようだ。
「そいつはまずいな、ハンチョウ」
 速水は真顔になると、ぱっと体を起こし、玄関へ歩いて行った。年齢を感じさせない、敏捷な速水の動きに、安積は一瞬見惚れた。
 速水はすぐに、両手でバイクのキーをカチャカチャいわせながら戻ってきた。立ったまま、キーケースから外したなにかを、安積に放ってよこす。
 それは鮮やかなオレンジ色のキーホルダーだった。開閉式のプラスティックケースになっている。開けてみると、略式された人の顔がプリントされた、ビニールシートが出てきた。
「人工呼吸用のフェイスシールドだ」
「ずいぶん用意がいいじゃないか」
「この前、心肺蘇生法の講師に駆り出されてな。参加賞さ」
 年末になるにつれ、さまざまな犯罪が増加するが、中でも飲酒によるトラブルが群を抜いて多く発生する。交機隊は飲酒運転などの検挙率も高い。心肺蘇生をおこなう頻度も高いだろう。毎年、今時期になると、若い奴らや希望者を募り、講習会を開いているらしい。
 まったく、ご苦労なことだ。
 他人事のように考えていた安積に、速水は、いたずらを思いついた子供のように目をくるっとさせ、笑みを浮かべながら言った。
「よし。ハンチョウ。特別講習開始だ」


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