氷の温度. 1



 街中がクリスマス一色に染まった十二月の初旬。
 いつものようにふらりとやってきた速水は、憂さをはらすかのような、やや大きな声で告げた。
「おい、ハンチョウ。河豚をたらふく食わせてやるぞ。──それも、俺の家で」

 突拍子もないセリフに、おもわず安積は目を通していた書類から顔をあげ、速水の顔を見つめた。
 生活感のかけらも見せない速水が、家で、河豚、だと?
 今日の刑事課は、比較的落ち着いていた。とはいっても、事件が全くないわけではない。須田と黒木のコンビは、傷害事件の現場検証に先ほど向かった。桜井はなにか細々と村雨から指示を受け、朝から裁判所や本庁を駆け回っているはずだ。安積と村雨は日ごろたまった書類をすこしでも減らそうと、机に向かっていたところだった。
 そんな時、混乱させるようなセリフが、静かな部屋に響いた。
 突然のことに、後輩からは鉄壁のポーカーフェイスを讃えられる安積が、驚きを顔に表していた。すこし重たげな瞼をしっかりと見開き、薄目な唇をきゅっとすぼめた表情を見せている。
 速水はそんな安積を脅すように上から見下ろし、むすっとした表情で荒々しく言った。
「暮れに鍋セットとかいう、河豚だのスープだの一そろい送ってきた奴がいてな。
 あの野郎、気をきかせたつもりなんだろうが、面倒なものよこしやがって」
「相手は好意で贈ってきたんだろう。私だって鍋の材料が届いたら困ると思うが、そう怒ることはないだろうが」
「『寂しい独身生活者へ。家に女をひっぱりこむ、絶好のネタを送ってやる』だとさ。
 こんなメモがついた物、おまえなら気に入るか?」
 つまり、河豚で釣って女を連れ込み、酒に酔った勢いで既成事実をつくってしまえ、ということか。たしかに下世話だ、と安積は思った。だが、この年で女性の影が見えない速水には、丁度いい位の切っ掛けになるのかもしれない。
「……女はともかく、おまえさん処の若い奴らを呼んで、忘年会でもやればいいじゃないか」
「冗談だろ、ハンチョウ。部下の身になってみろよ。なにが楽しくて、非番の日まで上司のツラ拝まなきゃいけないんだ。俺ならゴメンだ」
 その通りだ、と安積は心の中で同意した。終業後、仕事の余韻を残しつつ皆で飲み屋に流れるのならばいい。激務からの開放感を皆で分かち合い、酒を酌み交わしてお互いをねぎらう。それがなぜか、日を改めての飲み会となると、愚痴を言い合い、他人をこき下ろすだけの場となる。安積もうんざりするようなことが度々あり、上司からの誘いはおっくうなものだった。
 だが、速水だったら話は別だろうと、安積は思った。
 速水は部下から圧倒的に慕われている。崇拝されているといっても良いほどだ。そんな速水が声をかければ、瞬時に参加者が集まるに違いない。
 速水のマンションの、あまり物の無い殺風景なリビングに、交機隊の制服を着た若者がみっちりと詰まっている様子を、安積は想像した。
 真冬なのに、ひどく暑苦しいだろうな。
 青と白の群れが、波がしらのようにぶつかり合いながら、一つの鍋に襲いかかる……。
「──おい、ハンチョウ。聞いてるか? くだらない書類なんかほっといて、さっさと俺の家にむかうんだ」
「おまえに命令されるなんざ、まっぴらだ」
 うっかり馬鹿な想像をしてしまった自分を恥ずかしく思いながら、安積はぶっきらぼうに言った。
「それなら刑事課強行犯係の、安積警部補に捜査依頼だ。俺の冷蔵庫から腐臭が漂わないうちに、鑑識捜査してくれ」
「石倉さんを差し置いて、俺が出しゃばるわけにいかないな」
「窒息死したのち、真空パックに詰められ冷凍保存された魚に、鋭利な刃物で狩り取られた野菜か。ハンチョウ名義で、鑑識課に持って行ってみるのも一つの手だな」
 窒息死や鋭利な刃物、といった物騒な単語に、安積達をまったく気にせず書類作りに没頭していた村雨が、ゆっくり顔を上げて数秒間二人を見つめ、再び視線を書類へ戻した。あきらかに迷惑がっているな。安積は村雨に気を遣うように席を立つと、速水の肩を押して出口へとうながした。
「おまえの軽口は冗談に聞こえないから、たちが悪い」
「とにかく、タイムリミットは明後日までだ。実行されたくなかったら、俺の家まで捜査しに来るんだな」
 来る前に電話してくれ。用意しておく。そう言い残して、速水は去って行った。
 鍋の処理に目処がついて気が晴れたのか、自分のシマへ帰っていく速水の足取りは軽かった。
 颯爽とした速水の後姿を眺めながら、安積は速水の余罪について考えた。死体遺棄に死体破損、俺にあてた脅迫と実行予告。そして、タイムリミット……?
「賞味期限のことか」
 安積はおもわず一人呟いた。そして、それすら咎められるんじゃないかと、そっと村雨を窺った。

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