CROSSBEAT(s). 5



 安積は平静を装って、リビングのソファに深く腰を下ろした。いつも、自分の家の物とは比べられないほど座り心地がいい、と感じていたが、今日はそんな余裕はなかった。
 安積がコートを脱いでいると、速水が台所から、なにか湯気の立つものをもって現れた。
「飲めよ」
「ありがとう」
 差し出されたカップの中身は、温められたワインだった。歓迎とは無縁の表情だったが、一応気を使ってくれるらしい。速水は続いて毛布と布団を抱えてくると、安積の足元に置いた。
「俺は明日、早番だ。鍵はポストで構わない」
「ああ。すまないな」
「俺は寝る。講釈はこの次にしてくれ。エアコンはつけたままで寝ろよ」
 そう言い残して、速水は寝室に立ち去った。
 安積は寒さでこわばった両手で、カップを包みこんだ。風呂上がりの上、玄関先でしばらく立ち話をしていた。顔には出さないが、安積の体はすっかり冷え切っていた。
 安積は香気にむせそうになりながら、舌を焼くほど熱い赤い液体をすすった。徐々に体の緊張がほぐれていく。だが、心に受けた衝撃は、さほども癒えない。
 今夜、速水を一人にしてはいけない。安積は直感のまま、速水の家に上がり込んだ。しかし、安積から逃げるように、速水は寝てしまった。
 安積はカップから暖を取りながら、先ほどの会話を反芻していた。
 ──お前に、俺のなにがわかる、か。
 自分でも同じことを考えていたとはいえ、実際に本人に言われてみると、ひどく苦しいものだった。
 確かに俺は、二十数年友人として付き合っていても、速水直樹という人間を分かっていない。
 速水にはどこか絶対に踏み入れさせない一点があって、安積もそれを暴くようなことは避けていた。人に触れられたくない想いは誰しも持っているものだし、また、速水は安積が出会った人々のなかで、一番心を隠すのがうまかった。巧妙な軽口や大胆な態度で煙に巻き、本心を見せようとはしない。
 速水の人をくったような笑顔の裏にあるものを、安積は考えたことが無かった。言われない事は分かりようがない。という開き直りもあったし、正直なところ、速水の本心を知ることが怖かった。
 ──そうだ。俺は、速水が怖い。
 先ほどの殺気を孕んだ視線。まだ、背筋がしびれるような恐怖を感じる。速水の、犯人に対する視線のみで相手を竦ませるような場面は度々見てきたが、あんなにも熱を帯びたものではなかった。
 彼女との関係をとがめられた怒りの表れかと思ったが、それだけではない。安積は幾多の犯罪者を見てきた観察眼で、速水の演技を見抜いていた。
 ──一体、お前は、なにを隠しているんだ。
 去年の暮れ、この部屋に来た時も、同じ恐ろしさを感じた。だが今は恐怖よりも、速水のことが知りたい、という想いが強かった。
 安積は顔を上げ、玄関へ続くリビングのドアを見つめた。
 タクシーを拾い、家へ帰れば。いままで通り軽口をたたき合うだけの、気心の知れた同僚として付き合っていけるだろう。
 次に、自分の右側の空間に視線を向けた。一人掛けでは広すぎるソファの空きを、なんとはなしに手でなぞる。
 このままここで、朝を迎えれば。昨日は言いすぎたと、どちらともなく謝り、今日の出来事はうやむやのまま、あわただしい日常にまぎれていくだろう。
 そしてこの場所は彼女のものとなり、俺は一生、速水の本心を知らないままだ。
「……──嫌だ」
 たとえ、いままでの友情関係を失ったとしても、笑顔の裏にあるものを知りたい。
 どんなに恐ろしくても、もう、逃げることはしない。
 安積は立ち上ると、速水の寝室のドアへ向かった。


 ドアを数回ノックしたが、速水からの返事はなかった。ためらった末、安積はドアをそっと開け、寝室に足を踏み込んだ。
「……なんだ」
 速水はドアの方向に体を向け、ベッドに腰掛けていた。組んだ両手に顔をのせているので、ベッドライトの明かりに瞳だけが白く浮かんで見えた。
「すこし、話をさせてくれ」
 安積は速水の前に立ったまま、考えをまとめながら、話し始めた。
「俺は、お前が納得していれば、彼女との結婚を反対する気はまったくない」
 自分の倫理観には外れるが、速水にそれを押しつける気は毛頭なかった。
 速水は聞いてはいるのだろうが、ぴくりとも動かない。
「いつか俺とは違って、おまえを理解できる女性が現れると思っていた。それが彼女なら、俺は喜んで祝福する。──だが」
 話をしていて、安積は自分の違和感がなんだったのか、ようやく気が付いた。
「俺には、今のお前が幸せそうには見えない」
 そうだ。こいつの幸せそうな姿なら、俺は知っている。犯人を挙げた時のやり遂げた表情。交機隊の話をするときの自慢げな様子。うまそうに酒を飲む姿。ときおりみせる、目を細めて微笑むしぐさ。
 ──なんだ。俺は、速水の事を知っているじゃないか。
「聞かせてくれ。お前は本当に、彼女が好きなのか」
「………」
 無言のまま顔を上げない速水に、安積はさらに尋ねた。
「速水。お前は、幸せか」
 その時、ベッドライトで誇張された速水の影が、大きく部屋を揺らした。


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