CROSSBEAT(s). 3



 あわただしく幾日かが過ぎた。安積は相変わらず、定時を大幅に上回っての帰宅だった。
 安積はコートのまま流しに立つと、グラスに氷を入れてウィスキーを注いだ。その中に蛇口からすこし水を加え、立ったまま、濃いめの水割りを喉の奥に流し込む。
 今日も顔を見なかったな……。レストランで偶然あって以来、速水と顔を合わせていないことを、安積はずっと気にかけていた。
 あの、秘密主義な男のことだ。聞いたところで、正直に白状するとは思えない。それに結婚話だって、涼子の推測にすぎない。だがあの日見た、さりげなく速水の腕を取った時の彼女の微笑み。親しげに視線をかわす二人のしぐさ。どう見ても恋人同士だった。それならば涼子の言う通り、早めに本当のところを聞いておかねばならない。
 しかしなぜか、安積は速水に尋ねるのをためらっていた。
 ──素直に祝福できないのも、どうしてなのだろう。
 安積はここ数日、おなじ自問自答を繰り返していた。初めは驚きに、喜びの感情が追いついていないせいだと思っていた。次に、若くて美しい女性を手に入れた速水に、自分は嫉妬しているのかもしれない、と考えた。しかし、どちらも違う。
 なにかがおかしい、と安積は引っ掛かりを感じていたが、それがなにかは分からなかった。
 頭を切り替えるため、シャワーを浴びて、寝巻代わりのスウェットに着替える。もう一杯新しい水割りを作り、今度はリビングのソファでゆっくりと味わっていたその時、家の電話が鳴った。
「お父さん。よかった、家にいて。今、大丈夫?」
 娘の涼子からだった。なにやら息をひそめたような声に、安積は不安を感じた。
「どうした? なにかあったのか」
「うん。あのね……」
 涼子はなにか、ためらっているようだった。安積は先を急がせることなく、無言で涼子の言葉を待った。
「……この前、レストランで、速水さんたちと合ったでしょう」
「ああ」
「それでね、あの時の、速水さんの彼女さん。今日また、街で見かけたの」
 こくり、と、小さく唾をのみ込む音が聞こえた。思いつめたような声で涼子は言った。
「速水さんじゃない、別の、知らない男の人と、腕を組んで歩いていた」
「……」
「彼女さん、より、少し上くらいの人だった。……すごく、仲良さそうに見えたわ」
 とっても素敵な、恋人同士に見えた。と、涼子は言いにくそうに続けた。
「……見間違い、ではないのか」
「あたしも初めはそう、思ったんだけど。……コートが同じだったのよ」
 涼子はたどたどしいながらも、なるべく正確に、自分の知っていることを安積に伝えた。
「あのコート、***の、まだ日本で売ってないものなの。ほとんど着ている人いないはずよ。色も同じだった。最近雑誌で見たものだから、確かよ」
 なにより、着る人を選ぶデザインのコートだ。顔はきれいな人、としか覚えていないが、コートを身にまとったシルエットは強く印象に残っていたのだ、と涼子は安積に告げた。
「……お父さん。速水さん、この事、知ってると思う?」
「……どうだろうな」
「どうしたらいいの? だまっていたほうが親切? それとも正直に、見たことを話したほうが……」
 涼子の声は、いまにも泣きだしそうに震えていた。
「涼子。この話は、お父さんから速水にする。だから、心配するな」
「……うん。わかった」
 その後しばらく互いの近況を話すと、涼子は落ち着いてきたようだった。最後は笑いながらいつもの調子で、おやすみなさい。といって、電話は切れた。
 リビングに戻ると、安積はすっかり氷が溶けた水割りを一口飲み、深く詰めていた息を吐き出した。安物のソファに身を沈め、今の話を検証しにかかる。
 安積は涼子のことを、推測や憶測だけで人を批判したりする娘ではない、と、親のひいき目ではなく思っていた。涼子が見た、というならばそれは本当に、速水に寄り添っていた女性だったのだろう。
 その男性は、彼女の兄弟や親戚という可能性もある。
 言葉は悪いが、彼女は速水とその男性を、二股に掛けているのかもしれない。
 一番やっかいなのは──
「──あいつに限って、結婚詐欺に引っ掛かるなんて、あるわけがない」
 誰もいないリビングに、自分の呟き声がやけに響いて聞こえ、安積はぎくりと身を固くした。緊張をほぐすように息を吐き出すと、再び水割りに口を付ける。
 だが、憶測は捨てるべきだ、と安積は思った。
 俺に、速水の何がわかる? 現に、彼女の存在すらまったく知らなかった。まして結婚するなど、想像もしていなかった。
 ふと、先日の鍋を思い出す。あの時、速水はいつも以上に強く、俺に復縁を勧めていた。普段なら俺が不機嫌に否定するだけで、話は終わっていたのだ。あれは、自分の結婚を念頭に置いて、一人身の俺を心配しての事だとしたら──。
 安積はソファから立ち上がると、残りの水割りを一気に飲み干した。そのまま寝室に入り、クローゼットから新しいワイシャツを取り出すと、着替えを始める。
 すくなくとも身を案じるくらいは、二十年来の友人として、当然のことだ。
 安積は自分の行動にそう言い訳をしながら、速水の家へと足早に向かった。


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