暦の上では春だというのに、肌寒い日が続いていた。
安積はつかの間の休息時間、自分のデスクに座り、いまにも降り出しそうな曇天を眺めていた。
このまま夜まで、天気が持ってくれるといいんだが。
眉間を指で揉みながら、窓から電話、デカ部屋全体に視線を移す。
──できれば、事件もだ。
安積は今夜、久々に娘と食事をする予定だった。行ってみたいレストランがあるが、年齢層が高めに設定された少し敷居が高い店らしい。はずんだ声で、お父さんと一緒なら大丈夫。もう、予約を入れたから。と話していた。だしに使われているのかもな、と苦笑する半面、娘に同伴する男性がまだいないことに、安積は安心感を覚えていた。
「めずらしく、退屈そうじゃないか。パトロール車ならいつでも空いてるぞ」
帰りまで終わらせようとしていた書類に手をつけ始めた途端、いつもの笑いを含んだような、速水の声が響いてきた。
「……お前の目は、書類の山が見えない、特殊仕様らしいな」
「ああ。制限速度以上で走る車両の、ナンバーを読めるくらいにはな」
せいぜい、老眼に気をつけろよ。書類から顔をあげない安積に皮肉げに声をかけると、速水はデカ部屋をあとにした。
去年の鍋の日の後も、速水は以前と変わらず、安積に接してきた。
軽口や、からかいを含んだ言葉をなげてよこしては、にやりと笑いかけてくる。
何度か捜査途中、速水のパトカーの助手席に乗せてもらったこともあった。その時も復縁話を蒸し返したりはせず、互いの仕事内容を語るだけで話は終わった。
それでも、安積はどこか速水が話しかけてくる度、身構えてしまう自分を感じていた。
速水にもぎこちなさが伝わっているのか、今日のように二言、三言、軽口をたたくだけで、長居せずに去っていく。その背中がどこか寂しそうなのは、俺の心情がそう見せているだけだろうか。つい、速水の後ろ姿を目で追ってしまい、安積はそっと溜息をついた。
* * *
商社のOLらしいユカは、コートの華やかなドレープをひるがえし、ヒールを鳴らしながら待ち合わせ場所へ現れた。約束通り速水もスーツに身を包み、二人はユカが予約を入れていたレストランへ向かった。
先にドレスを見るのかと思っていたが、ユカはレストランが込みあう前に食事を済ませたかったらしい。二人はそれぞれメインに合わせたワインをかたむけながら、小奇麗な料理が盛り付けられた皿を、一枚一枚、ゆっくりと片付けていった。
食後のコーヒーを楽しんだ後、二人は席を立った。速水が会計を済ませた時、入り口から二人連れの客が入ってきた。
「……速水」
「速水さん!」
異口同音で呼ばれた先に目を向けると、安積と、その娘の涼子が驚きの表情でこちらを見ていた。
「奇遇だな。久々に親子デートか」
「速水さんこそ、デートですか?」
そう言って涼子は、速水の後ろに立つユカに、軽く頭を下げた。ユカも淡く微笑みながら、会釈を返す。
「まぁな。ここの飯、うまかったぞ。涼子ちゃんは、メインに肉料理を頼むといい」
店員が、お席にご案内いたします、と安積達に声をかけた。
速水もユカをうながしながら店を出た。ユカが次に向かう店の話を始めたので、その後ろ姿を安積が振り向いて目で追っていることに、速水は気付かなかった。
食後のコーヒーを味わいながら、安積は娘の近況報告を聞いていた。
いつもなら娘の話すひとつひとつにじっと耳をかたむけ、必要であれば助言を挟んでいた安積だった。だが、今夜はなぜか、そんな余裕がなかった。先ほどの速水達の幸せそうな姿が、脳裏に焼き付いて離れない。
涼子も途切れがちな会話に気を遣い、話をやめて窓の外を眺めていた。
広い通りに面した二階にある店なので、通りを歩く人々が見下ろせる。せわしなく行きかう人々をなにげなく見ていた涼子が、あ、と、小さな声をあげた。
「あれ、速水さんじゃない? あの、向かいの店から出てきた人。さっきの彼女さんと一緒だ」
「……ああ、そのようだな」
ぼんやりとコーヒーを啜っていた安積は、娘の声につられて窓の外に目を向けた。すぐに、人ごみのなかでも際立つ外見の速水と、親しげに寄り添う華奢な女性の姿が見つかった。
「いいなぁ。いつ頃、式あげるのかな。お父さん、なにか聞いてない?」
「……式?」
「だってあそこの店、ウェディングドレスの専門店よ。あの美人な人と、速水さん結婚するんじゃないの? 二人でドレス選んだんでしょう」
あたし達もお世話になってるし、なにかプレゼント考えないといけないわね。雑踏にまぎれていく二人から父に目をむけ、笑顔で涼子が言った。
「今度逢うときまで、速水さんに日取り聞いておいてね。お母さんにも話したいし」
安積は、窓の外に気を取られ、娘に返事を返すことができなかった。