少女と子犬. 1



「来週、休みが重なる日があっただろう。……暇なら家に来ないか」
 どういう風の吹きまわしか、桜井にはわからなかった。
 ただ、村雨が、自分の家に呼んでくれた。妻子にも逢わせてくれるという。それだけでまたひとつ、かたくなな村雨が自分を受け入れてくれた気がして、桜井はひどくうれしかった。

                       * * *

 桜井は昼食だけ呼ばれたつもりだったが、勧められるままビールを飲み、村雨の娘も慣れてくるにつれ、桜井の膝の上で遊びはじめた。気づけは午後もすっかりまわっていた。
「夕飯も食べていって下さいね」
 やさしい村雨の妻の言葉に、桜井は上司を伺いながらも、はい、と頷いてしまった。
 買い物をしてくる、という奥さんに、当然のように村雨も一緒に立ち上った。
「お前たちは、留守番していてくれ」
 村雨の一言で、桜井と少女は、あたたかな部屋に、二人きりで過ごすこととなった。

                       * * *

「あのね、おとーさんにね。おかーさんには、言っちゃいけないよって、言われたんだけど。桜井くんは、おかーさんじゃないから、いいよね?」
 ふたりだけの、ひみつだよ?
 桜井を馬にしたお姫様ごっこにも飽き、少女はつぎの遊びを思いついたようだ。少女はいかにも内緒話を始めるように、小さな両手を桜井の耳に当て、そっとささやいた。


「うちのおとーさん、かたにでっかい歯がたがあるんだよ。犬にかまれたんだって」
 きのう、いっしょにおフロにはいって、みちゃったの。少女は真剣な面持ちで、桜井に村雨の秘密を打ち明けた。
「……そうなんだ」
 しまった。痕が残るほど、強く噛んだつもりはなかったけど。桜井は先週の逢瀬を思い出しながら、少女に答えた。村雨さん、うっ血しやすいからなぁ……。

「あとね、おムネにいーっぱい、赤いポツポツがついてるの。それも犬にやられたんだって。子犬って、おかーさんのおっぱいをさがして、なんでもちゅうちゅうしちゃうんだって。桜井くん、しってた?」
 少女は小首をかしげ、桜井の瞳を覗き込みながら言った。
「そうかもしれないね」
 村雨さんの胸に、女性性を求めたことはない。でも、あの白い胸を目の前にすると、なぜか唇を寄せ、吸いつきたくなる。うすく筋肉が張り詰めた肌を、かるく歯を立てながらキュッ、と吸う。すると、そこに赤い花びらが現れる。それがとてもきれいに見えて、つい夢中になってしまうのだ。
 この間もつけすぎて、帰りがけにキスもさせてくれないほど、怒らせてしまった。

「それでね、そういう、おいたをしたらね。すぐにおしおきしなくちゃ、いけないんだって」
 少女は舌足らずな、それでもせいいっぱい真面目な口調で言った。
「……そっか」
 これが、お仕置き、なのかな? 桜井は幼い少女を目の前にして、ぼんやり思った。
 村雨さんの、いちばん大切なもの。
 それを見せつけるかのように、初めて家に呼んでくれた。
 さっぱりと片付いた小奇麗な部屋。あちこちに娘さんの絵や、奥さんの手づくりらしい、可愛い小物が飾ってある。
 月並みな言い方だけど、絵に描いたような幸せとは、こんなことなんだろう。
 桜井はすぐそばに貼ってある、三人の人物が描かれた絵を見つめた。そして、前からずっと知っていたあることに、今更気づいた。

 ──そうだ。俺がいても、いなくても、村雨さんは幸せなんだ。

「……お父さんは、悪い犬を、嫌いになっちゃったかな」
「?」
「ごめんね、なんでもないよ」
 桜井はおびえさせないよう少女にちらりと笑いかけ、しかしそのままうつむいてしまった。
 ──さすがに、へこむな。
 日頃は深く考えないようにしていた想いを、桜井は一人噛みしめていた。
 自分にとって愛情とは、まわりにあふれているものだった。自分から向ければ、必ず返ってくるものだった。自分が幸せを感じることで、相手も幸せになる。それが、愛の形だと思ってた。……だけど。
 桜井は溜息をついた。
 村雨さんには、俺の幸せは、必要ないんだ。
 幸せは、このかわいい娘さんや、おいしいごはんを作ってくれた奥さんが、あの人に与えてくれる。
 ──俺はずっと、独りよがりな幸せを、押し付けていただけ、だったんだな。
 村雨さんの家に来て、ようやく、それがわかった。

「お仕置きされて、当然だよな……」


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