やわらかな朝



 無造作に書類カバンに手を入れた村雨は、ふかっ、とした感触のものに触れ、動きをとめた。
 ──またか……。
 村雨はちいさな笑みをうかべながら、そのやわらかなものをカバンから引き上げた。
「あれっ、どうしたんですか? そのぬいぐるみ」
 背後から、桜井が軽く驚いた様子で声をかけてきた。両手に持ったマグカップからは、コーヒーのこうばしい香りがただよってくる。
「娘のいたずらだ」
 非番だった昨日、こっそりと入れたのだろう。
 村雨はカップをひとつ受け取ると、なんとはなしに桜井の空いた手へぬいぐるみを乗せた。
「うさぎ……いや、あざらしの子どもかな? それが、うさぎの着ぐるみをかぶってるのか。ちいさいのに、よくできてますね」
「妙にくわしいな?」
 不思議に感じ、村雨は手にした書類から桜井へ視線を向けた。村雨には、その白とピンクで作られたものが、実在の生き物をかたどっていることすら分からなかったからだ。
「まぁ、昔の彼女とか、けっこうこういうの好きでしたから。それに子どもの頃、姉貴たちの飽きたやつが俺んとこにおさがりできたりして」
 桜井は自分のデスクに座りコーヒーを置くと、両手でぬいぐるみをもてあそび始めた。
「……そういえば、中でもひとつ、すごく気に入ったのがあって。真っ黒いクマだったな。外国のお土産とかで姉貴たちは最初さんざん遊んだくせに、片手がとれそうになったら気持ち悪がって、俺におしつけたんですよ」
 ちらりと村雨に目を向け、はにかんだように笑うと、桜井はふたたびぬいぐるみをなでながら続けた。
 「腕を母になおしてもらったら、姉貴たちは返せって騒いだんですけど、俺も泣いて嫌がってね。男のくせに、なんて言われても絶対に離さなかったら、姉貴たちもしぶしぶあきらめて。俺だけのものになったときは、すごくうれしかったな」
 まだ、実家にあるはずです。
 懐かしげに目を細めて昔話をする桜井を、村雨はまた不思議に思った。
 ──どうしてこいつは、ごくプライベートな、そしてきっと大切な思い出を俺に話すのだろう?
 けして嫌なわけではないが、そんな話をされる理由がわからない。
「…………」
 どう相づちをうっていいかわからず、なんとなく気まずい気分で村雨は時計を見上げた。勤務がはじまる時間まで1時間以上もある。いつもは雑然と込み合っている刑事部屋も、無人ではないが人影はまばらだった。
 ──わからないと言えば、こんなに早く出署してくることもそうだ。
 村雨は非番明け、早めに家を出ることにしていた。休み中に事件が進展していないか気になるし、家族サービスですこしだるい体を、通勤の混雑でさらに疲れないようにするためだ。
 そんな個人的な事情に、いつしか桜井が合わせるようになっていた。
 ──強要などしていない。だが係長などは、自分が指示していると思っているに違いない。
 村雨はわずかに眉を寄せた。とがめられたことはないが、そう考えるといささか気が重い。今日こそやめさせなければ。
「……桜井。何度も言うが、俺に合わせて早く来る必要はないんだぞ」
「はい。でも俺が、好きでやってることですから」
「だから、それは……」
 なぜなんだ。と言葉を続けようとした村雨の口に、むぎゅっ、とやわらかなものが押しつけられた。
「!?」
 桜井はそのぬいぐるみをそっと自分の口にも押しあて、ちいさく笑いながら言った。
「おはようのキス、もらっちゃいました」
「……馬鹿か、おまえは!?」
 いくら人が少ないとはいえ、見られていないともかぎらない。村雨はさっと辺りを見回し、無人なのを確認すると、押し殺した声で桜井を叱りつけた。
「……迷惑なのは分かってます。早く来るのは、俺のわがままです」
 ぎこちない笑みを口の端にのこしたまま、桜井は目を伏せ、ぽつりとつぶやいた。
「こんな時間でもないと、無駄話もできないでしょう。……俺、村雨さんともっといろんな話がしたいんですよ」
「…………」
 まだ目を伏せたまま、ぎゅっとぬいぐるみを握り締めている桜井に、村雨はおおきく溜息をついた。
 ──やはり、答えを聞いてもわからない。
 ただひとつ、おぼろげにわかることは──こいつはどうやら、俺に好意をもっているらしい、ということだけだ。
「桜井。そのぬいぐるみだが……」
「あ、すみません。返します」
「馬鹿言うな。おまえの唾液がついたものを、娘に返せるか」
「……すみません」
 桜井の青い顔で自分を見つめる姿に、村雨は娘に感じるような、ほのかな感情を覚えた。
 ──この感情は……しいて言えば、いとおしさか。
「だから、それはおまえが責任をとって持って帰れ」
「え?」
「また、おさがりだけどな。はやく誰かに見られないうちにしまっておけ。刑事がぬいぐるみ遊びしてるなんて噂がたったら、最悪だ」
「……はい!」
 桜井はいそいそと自分のカバンにぬいぐるみをしまった。それを横目で眺めつつ、村雨は緩みそうになる口元を、なんとか引き締めていた。
 ──自分で思うのもなんだが、俺になつく奴も相当な物好きだな……。
「おはようございます。二人とも、早いですね」
 黒木の落ち着いた、通りのいい声が部屋に響いてきた。
「おはよう」
「おはよう。おまえも早いな」
 また、一日が始まる。
 村雨は桜井のカバンの妙なふくらみに一瞬目をやり、奇妙な高揚感を感じながら書類に専念しはじめた。

                                             END

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