ひとひらの幸福



「おまえさん、なにか、いい香りがするな」
「おい、嗅ぐんじゃない」
 肩を抱きながら首筋に顔をよせる速水に、安積は眉をしかめた。
 相変わらず、長い一日だった。
 確かに速水の顔が見たくて、部屋に寄ったのは自分だ。それでも一息くらい、つかせてくれてもいいだろう、と安積は思った。
 安積は速水の体温を心地よく感じながらも、ソファに落ち着かせた腰を引いた。ほんのすこし口をつけただけのグラスを、手放すのが惜しい。
「汗臭いだけだろう」
「なんだったかな。この匂い。知っているんだが……」
「速水。いい加減にしろ」
 安積は速水の頭を押しやった。速水は気にせず、逆にその手を取ると、自分の鼻先へよせた。
「指からもするぞ」
「だから嗅ぐな」
 指先からの芳香は、自分でも気がついていた。石鹸で洗ってみたが、なにか香料のようなものが染みついてしまったようで、あまり落ちなかった。不快な匂いでもなかったので、数日経てば消えるだろうと気にせずにいた。
 ──どうして、こいつはこんなにも気にするんだ?
「いい加減に、酒を飲ませろ」
「好きなだけ飲んでくれ」
 なにかに気を取られた表情で、速水はソファに深く座りなおした。安積の腰をひょいと持ち上げると、自分の両足の間に座らせる。安積は後ろから速水に抱きすくめられる格好になった。
「おい!」
「だから、飲んでろ」
 前戯のつもりかと思ったが、それにしては、唇を這わせてこない。後ろから腰に腕を回し、執拗に首筋の匂いを嗅ぐだけだ。
 その動物じみた行動に、安積はとうとう物を言うのをあきらめた。
 ──そうだ。こいつは、動物だった。
 きっと自分の縄張りに入りこんだ、嗅ぎなれない匂いが気に食わないのだろう。面倒だ。安積は速水の気が済むまで、放っておくことにした。
「首も匂うが、背中からが強いな」
「…………」
 速水は手探りで安積のネクタイをゆるめ、ワイシャツのボタンをはずしにかかった。邪魔なものを排除しようといった、いたって事務的な手つきだったので、安積もつとめて気にしない素振りで、グラスをあおった。その間も速水の手は器用にうごく。
 あっと言う間に安積は、ワイシャツの裾はほとんどズボンからはみ出し、両肩もむき出しにされた恰好になっていた。
「──見つけたぞ」
 速水は声をあげると、何か白っぽいものを指でつまみ、安積の目の前にかざした。
「ティッシュ……では、ないな。花びら、か?」
「肌着とシャツの間に落ちていた」
 そういうと速水は、今度は安積の鼻先に花びらをよせてきた。なるほど、たしかにやや強く、自分の指先とおなじ甘い匂いがする。
「こんなもの、どこで拾ってきた」
「知らんよ。──いや、そういえば……」
 先日、連続コンビニ強盗犯の容疑者が検挙された。家宅捜索はおこなったが凶器は見つからず、自供の末、犯行現場付近の公園へ捨てたと判明した。そして今日の昼間、手の空いている者総出で、公園中を捜索にあたったのだった。
「たしか、やたらに青々とした茂みがあったな。白い花もいくつか咲いていた」
 炎天下の中、汗だくになって探し回ったんだ。だから、あまり近寄るな。もうなにも言うまい、と思っていた安積だが、自分がどれだけ汗をかいたのかを思い出し、速水から身を引こうとした。
「やっぱりな。これは、クチナシの花だ」
 速水はもがく安積を気にせず、おさまりのいいように抱えなおすと、いくらかしなびた花びらを、ひらひらと振って見せた。その度にふわりと鼻孔をくすぐるような、やさしい香りが辺りを漂う。
「よく知ってるな」
「まぁな……」
 もがくのも忘れて、素直に感心した安積に、速水は不機嫌な声で、こう続けた。
「それより、こんなもの持って帰ってくるな。──まぎらわしいだろうが」
 最後の一言を、速水は独り言のようにつぶやくと、安積の肩に顔をうずめた。その口調が、めずらしくすねたような、ぶっきらぼうなものだったので、安積はからかい半分に言った。
「なんだ。俺が、浮気でもしてきたと思ったのか?」
「…………」
「速水?」
 皮肉か軽口が何倍にもなって返ってくると思っていただけに、安積は無言の速水に、本気であきれた。
「おまえ……。俺が、そんなことをするように、見えるのか? 仮に、浮気をしたとしてもだ。すぐに分かるような匂いをさせて、おまえの家にのこのこやってくるような馬鹿だと?」
 安積は体をねじって速水の顔を見ようとしたが、背後からきつくまわされる速水の腕に阻まれ、うまくいかなかった。
「ちがう。そうじゃない。……おまえは案外と、もてる。女に後ろから、抱きつかれでもしたのか、と思っただけだ」
 そういうと速水は、指先でもて遊んでいた花びらを、爪ではじき飛ばした。厚みのあるそれが、テーブルの上にぽたり、と落ちた。
「速水……」
 安積は、速水の台詞に笑っていいのか、それとも怒ったほうがいいのか、わからなくなった。結局、速水の顔を見るのをあきらめ、目の前に落ちたクチナシの花に目をむける。
 ──こんなちっぽけな、一枚の花びら。たったこれだけで、この男が、こんなにも不安になるのか──
 あたたかな速水の胸に抱きすくめられながら、安積には、速水が自分に、必死にしがみついているようにも感じられた。
 ──俺は、愛されているんだな。
 そう思った途端、ひどくあまく、物哀しいものが、安積の胸を満たした。
 ほとんど涙すら感じたが、何度か目をしばたかせ、その素振りは見せなかった。
 安積は速水の手に自分の手を重ね、ごつごつした関節を指先でたどりながらいった。
「速水。風呂を貸してくれ」
 この匂いを、落としてくる。そう伝えると、さらに安積は速水に言った。
「おまえは新しい水割りを2つ作って、先に寝室にいっておけ」
 そして迷った末、頬に血がのぼるのを感じながらも、もう一言つけくわえた。
「なるべくはやく、上がってくる」
「……了解しました、ハンチョウ」
 安積は、今日初めての速水の笑い声を背にしながら、風呂場へと向かった。

                                             END

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