あなたにコーヒー



「天下のハンチョウが、冷めたコーヒーなんて飲んでるのか」
 いつものようにふらりとやってきた速水は、安積のコーヒーカップを取り上げるとゴクリと飲みながら言った。
「文句をいうなら飲むんじゃない」
「この味は──黒木か?」
「……当たりだ」
 たしかにそのコーヒーは、黒木が出かける前にいれてくれたものだった。
 木枯らしが吹くなか、安積の部下達は皆それぞれに担当している事件の捜査に出払っていた。
 至急の書類仕事があるとはいえ、自分だけがあたたかい部屋のなかでコーヒーを飲みながらの仕事とは申し訳ないような気がする。
 ──そんなことは、こいつはまったく気にしないだろうな。
 平気でひとのコーヒーを飲み干そうとしている速水に、安積はあきれたような視線をむけた。
 ここで油を売っている暇があるならパトロールに行けと言っても、署内を歩き回るのもパトロールの一環だとかわされるだけだ。長年の付き合いから、早く去ってもらうためには相手をするしかないと安積は知っていた。
 安積は視線を書類から速水にむけ、ふと感じた疑問を口にした。
「なぜ、黒木がいれたものだとわかったんだ」
「そう言われてもな。単純に今日のはうまい。須田がいれたと思ったんだが、どこか違う気がしてな」
 須田のよりすこし薄めだ。速水は最後のひとくちを確かめるように飲むと、続けていった。
「この味は桜井がいれたものじゃないしな。水野ならおまえさんの体を気づかって日本茶にしそうだ。村雨はそもそも茶なんてださんだろう」
 だからホシは黒木で決まりだ。速水は空のコーヒーカップを片手に、外国人のように肩をすくめて笑って見せた。
「やけに細かいな」
 自分で尋ねた疑問だったのに、安積はその答えに不機嫌そうな声でこたえた。
 正直なところ、安積には誰がいれてもほとんど味の違いがわからなかった。いままで意識したことがなかったと言っていい。若さにまかせて多少おおざっぱな感がある桜井と、おだやかでふっくらとした容貌の須田では、須田にいれてもらったほうがうまそうだと感じていた程度だ。もちろん本人には言えないが、料理人がふとっているとその店はうまいような気がするのと同じ理屈だ。
 だが、速水にははっきりと味の違いでわかるらしい。
 そこが自分よりも部下達を分かっているようで、すこしばかり面白くなかったのだ。
 書類に視線をもどしてしまった安積にかまわず、速水は上機嫌な口調でつづけた。
「これもうまいが、俺の淹れるコーヒーのほうがもっとうまい」
「なんだと?」
「新しい豆を買った。今夜飲みにこないか」
「夜は、自分の家で酒を飲む」
 それを伝えにきたのかと納得しながらも、安積は素直にうなずけなかった。
「だいたい豆から淹れるものと、インスタントをくらべてどうする」
 ──けして、拗ねているわけではないぞ。
 にべもなく断る安積に、速水はにやりと口端に笑みをうかべながら、安積の耳もとに唇を寄せ小さな声でささやいた。
「俺が誘ってるのは“夜明けのコーヒー”なんだがな」
「……」
 速水の台詞に、安積はおもわず絶句した。じわじわと、頬の熱があがるのを感じる。
 “夜明けのコーヒー”の意味を知らないほど、うぶでもなければ若くもない。つまり今夜は一夜を共にしたのち、速水の家で朝食を食べる、ということだろう。
「それは、死語、と言うんじゃないのか?」
「おまえさんに通じてるんだ。まだ立派に現役だろう」
上目づかいに睨んでくる安積に、速水はニヤニヤと笑いを返しながら言った。
「もちろんインスタントだって、これよりうまくいれられるぞ」
「おい……」
 飲みほした安積のカップをひょいと持ち上げて歩き出そうとした速水に、安積はあわてて声をかけた。
「まさか、コーヒーをいれてくるつもりじゃないだろうな?」
 同期の速水をお茶汲みに使ったと誰かに知られたら、外聞が悪い。なによりも速水を神かなにかのように崇拝している交機隊員に見られでもしたら、なんとなく後が怖い。
「ここで俺にいれられたくないなら、家にくるんだな」
 無茶苦茶な脅し文句を、速水はまだ笑いをふくんだ声で言った。
 安積はカップを速水の手から奪い返すと、しょうがない、といった素振りで答えた。
「俺にでもわかるくらい、うまいコーヒーだろうな」
「この俺が選んだんだ。当然、うまいに決まっている」
 だから、今夜飲みにこい。
 かさねて伝えると、速水は満足げな様子で、来たときと同じようにふらりと刑事部屋を出ていった。
 その後ろ姿を目で追ったあと、安積は手にした空のカップを見た。ほとんど速水に飲まれてしまったせいですこしばかり喉の渇きをおぼえたが、自分で飲み物をいれようと席を立つことはしなかった。
 ──うまいコーヒーが待ってるしな。
 まだ頬に残る熱を感じながら、安積はカップを脇へ置いた。
 そして書類を手に取り、ペンを走らせはじめた。

                                             END

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