あなたのコーヒー



「はい、コーヒー。ここに置いとくよ」
「あ、すみません。ありがとうございます」
 かぐわしい湯気が立つカップに目をやり、黒木はそれをいれてくれた上司へ顔を上げた。
 須田はすでに自分のデスクに座り、やはりコーヒーをすすりながら書類を見やっている。
 黒木は須田へ軽く頭を下げると、ありがたくコーヒーをひとくち口に含んだ。舌を焼くような熱さとともに、酸味と苦みが口の中に広がる。
 ──うまい。
 黒木はほっと、息をもらした。
 めずらしく雑然としたデカ部屋には、須田と黒木しかいなかった。
 そんな時、須田はたまに黒木にコーヒーをいれる。
 他の人、たとえば安積もいれば黒木が皆に茶をいれ、桜井がいればもちろん、桜井がいれた。須田も、部下の仕事を奪ってはいけない、と思っているのだろう。だが、二人きりのときは気にしない。
 自分が飲みたい、というのもあるのだろうが、上司と部下という上下に関係なく、疲れている者に飲み物を差しだす。そんな風に自然に人を思いやれる須田が、黒木はとてもすきだった。
 ──しかも、須田さんのコーヒーは、うまいんだよな。
 黒木にはそれが不思議だった。別に、豆から淹れているわけではない。いつものインスタントと、お湯だって、給湯室のポットから注いだものだろう。だがなぜか、須田がいれてくれるコーヒーは、桜井や自分が作るものより、いつもうまいのだ。
 できあがった報告書の最終チェックをしつつ、コーヒーを飲みおえた黒木は、軽い身のこなしで椅子から立ち上った。
「須田さん、最終確認お願いします」
「もう終わったんだ。──……うん、これでいいよ。チョウさんの机に上げて、明日見てもらおう」
 俺も、これだけやったら帰るから。先に上がっていいよ。そう告げてくれる上司に、黒木はすこしためらった末、話しかけた。
「あの、コーヒーごちそうさまでした」
 続けて黒木は、日頃からの疑問を尋ねた。
「須田さんのいれるコーヒー、うまいです。なにかコツ、あるんですか」
「ああ、気づいた? まぁコツっていうか、ちょっと丁寧にいれるだけなんだけどね」
 須田はかるく照れたような顔で、黒木に自己流のコーヒーのいれ方を話はじめた。
「最初に、カップにお湯だけ入れて温めるんだ」
 自分の飲みおえたカップを持ち上げながら、須田は説明を続けた。
「そのカップに、コーヒーとちょっとだけお湯を入れて、香りが立つまでカリカリかきまぜる。それにゆっくりと、熱いお湯をつぎたすんだ」
 これだけで、けっこうおいしくなるだろう? でもすこし面倒だから、毎回はやらないけどな。
 そういって、須田は人のいい顔で笑った。
「聞いてきたの、お前で二人目だよ」
「桜井ですか」
「いや、速水さん」
 やはり須田が安積と二人で残っていた時、こうやって安積にコーヒーをいれたそうだ。それをふらりとやってきた速水が当然のように一口飲み、うまいな、なにか淹れ方を工夫しているだろう、と聞いてきたらしい。
 その光景をほほえましく思い浮かべながらも、黒木はなぜか、おなじ須田のコーヒーの味を知っている上司達に、かるい嫉妬めいたものを感じた。
「須田さん。もう一杯、飲みませんか。教えてもらったやり方でいれてきますよ」
「うん。じゃあ、もらおうかな」
 黒木はまだぬくもりがのこるカップを、須田から受け取った。
 ──心をこめて、ていねいにいれてみよう。
 そうおもえる上司に出会えたことをうれしく思いながら、黒木は給湯室へ向かった。

                                             END

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