「外だったのか? ハンチョウなら、クーラーの効いた部屋でふんぞりかえってりゃいいだろうに」
口の端に笑みを浮かべながら、速水は安積に近づいていった。
「おまえこそ自慢のスープラはどうした。無理な運転でとうとう潰しでもしたんだろう」
安積もまだ熱気を発する白バイに目をやり、軽口をかえす。
はたから聞けば嫌味の応酬のような挨拶だが、なんのことはない、互いにこのうだるような暑さのなか外へでているのを心配しているのだ。
「本庁からの帰りだ」
安積のふしぎそうな表情を読んだのか、速水は自身の格好について説明した。
「今年の大会はうちの若いのと、向こうからひとり出ることに決まってな。俺は合同練習の監督だ」
「去年はたしか、千葉県警が優勝だったか?」
「ああ。前回は個人も団体もさんざんな結果だったからな。今年は絶対に勝つ」
速水のいう大会とは、毎年10月におこなわれる全国白バイ安全運転競技大会のことだ。その名のとおり秀でた白バイ隊員が全国各地から集結し、運転技術や技量を競いあって日本一を目指す。開催へむけ2ヶ月をきっているこの時期、どこの県の交機隊も公務の合間をぬって特訓に励んでいるらしい。
それにしても、ごくろうなことだ。安積は速水のきっちり締めた首もとを、いささか気の毒な様子でながめた。もちろん自分も本庁へ出向く用事があれば、ネクタイを締め上着を持参していくだろう。しかし速水のように、この暑さのなか平然としていられる自信はなかった。
「……暑くないのか?」
「そりゃ、暑いにきまってる」
答えのわかりきった問いに、速水は額から玉のような汗をつぎつぎと流しながらも、すずしい顔をしてかえした。
「そうは見えないから聞いているんだ」
おまえには、熱中症なんて関係ないんだろうな。なかば感心したようにつぶやくと、安積はあらためてネクタイ姿の速水を見やった。
かたくるしいことを嫌う速水の、あまりみることはない格好だ。濃いブルーのネクタイがまっ白なシャツ、プロテクターの黒とあいまっていっそう映える。制服の前をはだけているせいで、プロテクターなどいらないのではと思えるほど厚い胸板が目についた。自分のうすい体とは比べ物にもならない。
羨望のまなざしを感じたのか、速水は安積の耳元に顔をよせ、笑いをふくんだ声でささやいた。
「熱いさ。そんなに熱心に見つめられると、ただでさえ熱い体がますます火照ってくる」
「なっ……! なにを馬鹿なことをいってるんだ!」
「ちがったか?」
そういう速水も先ほどから安積の、細い、だがけして華奢ではない適度に筋肉のついた腕や、うっすらと汗ばんだうなじを楽しんでいるのだが、安積はまったく気づいていないようだ。
鋭いくせに、自分にむけられる視線には無頓着なところが安積らしい。速水は苦笑しながら思った。もうすこし危機感をもってもいいだろうに。
「……汗くらい、ふいたらどうだと思って見ていただけだ」
安積はかすかに赤く染まった頬を、速水から隠すように顔をそらした。
「もっていない」
「なに?」
「汗をふくものだ。どうせすぐにシャワーをあびて着替えるんだ。このままでもかまわんだろう」
速水はそういうと、映画俳優かなにかのように両肩をすくめてみせた。
「見てるほうが暑いんだ。……使え」
安積は眉をひそめながらスラックスのポケットをさぐった。しまったばかりのハンカチを取り出すと、かろうじて汗がにじんでいない面を表にして速水へ差し出した。
速水はそのハンカチをじっと見つめた。そしてなにを思ったのか突然、安積の前に身をかがめ、頭をさげた。
「なんだ? 礼か?」
「いいや」
いぶかしむ安積に、速水はうつむいたまま笑いをたっぷりと含んだ声で言った。
「そこまでハンチョウがいうなら、拭かせてやろうとおもってな」
「……暑さが頭まできたらしいな」
ひとつ殴って正気づかせるか。安積は速水の後頭部へこぶしを振り下ろそうとしたが、すんでのところで止めた。
これ以上こいつが馬鹿になったら、俺がますます困る。
もうひとつ、速水の白髪ひとつない短く刈り込んだ頭髪が、なにか動物を連想させたこともある。
そうだ。安積は思い当たった。水浴びをしたあとの犬に似ているじゃないか。
さっとあたりを見回して人気が無いのを確かめると、安積は速水の太い首筋にハンカチをあててやった。うなじ、ひたいから顎と、幾筋もつたっている汗をざっとぬぐってやる。
安積ははっきりと頬が熱くなるのを感じながら、ちいさく微笑んでいた。
じっと頭をさげている速水をすこしだけ可愛いと思ってしまった自分も、いい加減暑さにやられているにちがいない。